自分の実家へ帰ることがまだ出来ていませんが、墓参りなどは済みました。
夫も娘も遊びに出かけて留守。シーツを洗濯機が洗ってくれているあいだ考えていたことを書いてみました。

片付けを通して理解できること
私の世代は、たしかに消費に溺れた世代です。でも、物だけでなく経験にも同じだけお金を使ってきたのではないかと思っています。
ブランド物の服やバッグをお土産にする海外旅行ではあったけれど、旅そのものも存分に楽しんだというように。
愚かだと言われても、そのためだけに働けたのは幸せだったと言えます。
無理もしたし見栄も張ったけれど、幸せを感じるまでの道のりが単純明快でした。
将来のことなど全く考えていませんでした。
高かったからとか努力の象徴だとかいう理由で捨てられないと悩む日が来ることも。
でも、それだけ存分に消費してこれたからこそ、物が少ない生活は楽だし幸せだと感じることが出来ているんだと思います。
30余年後の、多くの服や靴を捨ててきた過程で、むなしさ寂しさを何度も感じてきました。
けれど、それを上回る爽快感は、経験したことがないほど心地よいものでした。
旧ブログではこんな記事も書いています
⇒「管理できるレベルの量まで、物を減らそう」片付けで、目標は自然と修正される
片付けが進んできたら、物ではなく経験に価値を見出そう、新しいことも始めてみようと、具体的にイメージしていたことがあります。
でも、今はもうその気持ちが無くなりました。
モノより経験に価値を見出すことに賛成ではあるけれど、穏やかで失敗の少ないスッキリした日常をより望むようになったのです。
やるべきことを淡々とこなすなかで、小さな幸せ一つでも感じとることが出来たらもうそれで十分。
自分次第だと、50代になってから楽になった
50歳を越え心身ともに具体的に老化し始めると、「要は、自分次第」と思えるようになってきました。
自分次第だと思えば、何かに期待して予想通りに行かない時、がっかりすることもありません。
時間と手間とお金をかけるなら、空間と心を同時に整えられるようなことに使いたいです。
そのためには、やはり、学ぶ必要があります。
待ってても何も変わらないのは、いくつになっても同じだからです。
お盆休みも終わり、明日から平常運転の方もおられるでしょうか。今日はゆっくりできますように。
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50代を考え暮らす